「 回転木馬のデッドヒート 」

村上春樹(講談社文庫)

〜心的状況としての「都会」〜

現代の奇妙な空間―都会。そこで暮らす人々の人生をたとえるならそれはメリー・ゴーラウンド。

この本は村上春樹の作品の中では少し異質なもの。
作者の言を信じるとすれば、これは「正確な意味での小説ではない」。
彼が人々から聞いた事実を小説に置き換えたものだ。
「使いみち」のないまま、彼の中に積もった話が、あるとき「語られたがっている」ように感じられ、そしてできたのがこの作品集である。
だからこれは、村上作品の最近までのほとんどに共通する「ぼくの話」ではない。
でも、翻訳が翻訳者の匂いをまとうように、これらの話もひどく村上春樹的である。考えてみれば「人の話」を語るということは、「翻訳」にとても似ている。

この短編集には、少し奇妙な人や奇妙な状況が描かれる。例えば外国旅行で夫のレーダーホーゼン(半ズボン)を買おうとして、今まで夫を憎んでいたことに初めて気がつき、子どもも捨てて別れてしまう女の話。(「レーダーホーゼン」)
さまざまな「ゆがみ」を抱える人々の話を読みすすめていくうちに、しかし、これは特殊な人の物語ではない、と思えてくる。奇妙な形をとる現実の手触りは、自分からそう遠くないところにある。

村上春樹を初めて読んだのは「中国行きのスロウ・ボート」。図書館で見つけた安西水丸の装丁が「変わった感じの本だな」という印象を与えたことを覚えている。
その頃私は長野県の松本で学生をやっていて、本の中の世界がひどく「都会的」に感じられた。別におしゃれだとかカッコイイとかいう意味ではない。(この本はそういう話じゃないし)なんというか、そこにある世界認識、みたいなもの。「都会的なるもの」といってもいい。
何だか陳腐ですね。しかし、メリー・ゴーラウンドに乗って(つまり永遠に位置は変わらないのに)デッドヒートをする人々というのは、書かれた頃は、世間にとっては「都会」を象徴するものだった。冒頭に引用した、文庫の表紙裏の宣伝文がそれを語っている。
それは初め私の中で、自分と違うもの、という違和感として感じられた。それが次々と作品を読んでいくうちに自分と近いものになり、さらには切実な実感に近づいた。
それは、彼の世界を理解したからというより、いつのまにか自分の生きている世界がそうなっていたからのような気がする。
これは私個人の話なのだが、その後の世の中の傾向を見ていくと、どんどん村上春樹の作品に見られる世界認識が一般化しているように感じられる。もちろん彼は昔から売れてたわけで、そのころから時代の風とシンクロしてはいたんだけど、今やその風は世界を覆う空気になってしまった。
今ではその感覚はほとんど日本全体に広がっているのではないかと思う。つまり、この話はもう都会の人々の話じゃないのだ。逆にいえば「都会」という状況は今や全体に広がった、ともいえる。
そして、「回転木馬のデッドヒート」は、その状況を確実に切り取って我々の前に提示する。

われわれはどこにも行けない。しかし、歩き続けなければならない。
この作品群は歩き続ける助けになるものとは言えないかもしれない。しかし、「都会」になってしまった世界を生きている私たちには、奇妙でもどこか切実な話として感じられる。目的を持って物語を読んでいるわけではないけれど、そこには確かに読むことが契機であり癒しになる何かが存在している。


村上春樹については、売れすぎた「ノルウェイの森」しか読んでない、しかもそこで見切りをつけてる人は、ぜひ他の作品も読んでみて欲しい。私は「ノルウェイの森」も好きだけど。