「パリ左岸のピアノ工房」

T・E・カーハート(新潮社クレストブックス)

〜ピアノという魔術的物体

 ピアノの発表会でスタインウエイを弾いたことがある。
 キーがひどく軽くて、いつもより三割増のスピードで展開してしまい、指がもつれた。
 それでも音色はきらきらしていた印象がある。私の腕でも。
 楽器によって、音が違うということを一番はっきり感じた体験だ。
 (弾き手によって同じ楽器でも全く違うということはいつも身に染みていたのだけれど。)
 この本を読んで、そんな記憶が甦った。

 ピアノを弾いたことのある人は結構多いと思う。特に女の子は。
 しかし、多くの人はその体験を思い出という引き出しにしまいこんでしまう。
 この本を読むとその思い出に久しぶりの光が当てられる。
 体験がない人も、弾いてみたくなるかもしれない。ピアノを。

 作者は、家の近所にピアノの部品をディスプレイした店を見つける。
 謎めいたその店に惹かれ、おもいきって入ってみるが、最初のうちは体よくかわされて、
 その店の正体をつかむことはできない。
 数回訪れた後に入ることのできた店の奥の秘密めいた空間には、ピアノが4,50台も並んでいた。
 古いピアノ、新しいピアノ、有名無名。そこはピアノの修理、販売工房だったのである。
 彼はここで自分のためのピアノを発見するとともに、店の主人リュックとの交流を深めていく。
 そこで、彼は様々なピアノを目にし、ピアノにかかわる人たちと交流することになる。
 その体験はパリのアメリカ人である彼が、パリ(フランス人)をより深く知っていく過程にもなっている。  ここに書かれているパリの人の付き合い方は、何だか京都みたいだ。
 親しくなるまでに時間がかかり、なかなか本心を見せようとしない。
 しかし、一度親しくなるとそこには特別なものが存在するようになる。
 ピアノの魅力だけでなく、そのあたりもこの本の読みどころの一つになっている。
 ノンフィクションながら、登場人物たちはとても魅力的だ。
  
 文中では、再びピアノを習い出した彼のときめき、幼い頃からのピアノに関する思い出などが、
 パリの工房の風景に織り交ぜて語られる。これはピアノに対する彼のラブレターなのだ。
 ピアノの名前なんて、ヤマハ、カワイ、スタインウエイくらいしか知らなかったが、
 ここに出てくる楽器はどれも魅力的で、自分もその一つ一つの音を確かめてみたくなる。
 音を書くという難しい作業を作者はなかなかうまくこなしている。
 これがデビュー作品ということだが、今後どういう仕事をしていくのか気になる。

 自分の今持っているのはカワイの電子ピアノ。
 もう何年も触っていなかったそれを掃除して弾いてみた。
 手作りの温かみはないけれど、久しぶりに懐かしい音がした。
  

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