「志ん生一代」
結城昌治(朝日新聞社) 〜芸人というもの〜 落語には実はあまり詳しくない。数少ない体験のうち、特に印象に残っているのは二人。 古今亭志ん朝と柳家小三治。 志ん朝をきいたとき,「うまいなあ!」と思った。 (そのくせ,何を聴いたのかは忘れてしまったのだけれど) その父親がこの話の主人公。 あまりにも有名な落語家、古今亭志ん生の一代記。 作者の結城昌治は、始め伝記を書こうとしたが,資料不足で不可能だったとか。 しかし、彼が小説にしたことによって,志ん生は生き生きとした姿を獲得している。 よくできた時代小説のような味わいの始まり。 資料の少ない前半の方がかえって読みやすく面白い。 その後,事実は小説より奇なりで、事態は小説ならありえないような混迷を極めていく。 それもまたもちろん興味深く進んでいくのだが。 装丁の村上豊がとてもいいと思うのだが, なにやら墨文字で名前が一面に書かれた表紙。 これ、全部彼の名前なのである。 うまく行かないと彼はすぐ芸名を変えてしまう。 本のなかでもそのたびに表記が変わるのでなんだかぐらぐらしてくる。 名前というのは人につけられたコードなわけだけど, 彼はくるくると変えることで、それを無効にしてしまう。 意味付けさせない。人に合わせることも縛られることもできない。 できるのは芸だけ。 しかし生き方そのものからして芸のようだ。 とにかく破天荒というか,あまりにも芸人らしいというか。 結構後年まで無名で貧乏暮らし。そのくせ道楽三昧。 落語だけは好きで稽古は続けているが,生活はめちゃくちゃ。 金が入れば飲む打つ買う。師匠の羽織まで質に入れてしまう。 真打披露のために貰った羽織着物まで飲んでしまう。 落語界でやって行けなくなると, 講談師になってみたりする。 遊びは芸の肥やしというが,そう片付けてしまうには、 なんだかやること全てのスケールが違うのだ。 この生活の末に得た芸というのはどんなものだったのか。 彼の落語を聴いたことがない。 生で聞く事は当然ながらもうできないのだが,今度聴いてみようと思う。 先にこの人を知って聴く落語はどう聞こえるのだろう。 なるべく自分をフラットにして聴いてみたいと思う。楽しみだ。 |