ワークショップ開催にあたって



脚本家の倉本聰さんの書かれた「愚者の旅」という本(エッセイ集)の中に、こんなエピソードが出てきます。倉本さんはある時、ニューヨークの演出家、テリー・シュライバーからこんな質問を受けたそうです。日本には、『売れている役者さんたち』のための演技のトレーニング機関がどれくらいあるのか、と。で、倉本さんは答えに窮してしまうワケです。

役者を養成する機関……つまりは新人のための演技レッスンを受け持つ機関ならばモチロンありますが、テリーさんが尋ねたのは、今現在売れてる役者さん……つまりはテレビや映画、舞台等で既に活躍している役者さんが演技のレッスンを受けるための機関のコト。おそらく日本には、そんなモノは殆どありません。で、それを聞いたテリーさんはぶったまげるワケですね。

「ニューヨークで売れている役者たちの60パーセントから70パーセントが、演技の勉強をスタジオで続けています。ダスティン・ホフマンさえつい最近まで通っていた」
「だってもし、ダンサーが一週間トレーニングを休んだら挽回するのに時間がかかります。ボクサーが一カ月何もしなかったら、彼の筋肉はたちまち落ちます。演技者だって同じじゃないですか。一カ月演技のレッスンをしなければ、彼の力は確実に衰えます」

言われてみると、ごくごく当たり前のことですね。全くトレーニングをしないプロ……って、一体なんなんでしょう。でも、現実問題として、日本で活躍している役者さんたちは、演技のレッスンみたいなモノは殆ど受けていないでしょうし、必要性も感じていないでしょう。「今更レッスンなんて……」みたいなところが、(おそらくは売れてない役者さんですらも)本音としてある気がします。まあ、考え方として、レッスンというのは未熟なモノ、力のないモノが受けるもんだ……という部分があるんじゃないかと想像します。

ひとつには、日本では、演技というものが「技術」ではない、と考えられているフシがあるんですね。以前、知り合いの役者さんからこんなハナシを聞いたことがあります。彼は新人の頃に、とある養成所に通っていたのですが、そこでクドイほど言われたのが「テクニックなんか身につけるな!」というコトだったそうです。つまり、テクニックなんかに走っていると役者としての華がなくなるぞ、と。

なんというか、それっぽいお話ですね。新人の頃にこんな思想(?)を聞かされた日には、信じてしまう気持ちも分かりますが……これ、とんでもない嘘っぱちなワケです。
考えてもみてくださいよ。音楽でも美術でも、(あるいはスポーツでも)「技術」ナシで成り立つ世界なんてあり得ない。モチロン、ただ技巧だけに走った作品は人を感動させないかもしれませんが、どんなに素晴らしい魂(ソウル)もまた、技術抜きには人を感動させないワケです。ピカソだって、普通の絵を描かせたら目茶苦茶うまいワケですし。
要は、技術だけじゃダメだってコトで。ソウルとかスピリットと言われる「心」の部分と、技術。これはもうコインの裏表みたいなもので、当然のことながら、片面だけでは成り立たないワケですね。

なのに……まあ、振り返ってみると日本の演技界(いろんなジャンルを含む、役者さんたちの世界)、役者としての技術を磨こう……というコトに対してホント消極的です。まあ、磨きたくても、冒頭でてきたお話のように、その「場」がありませんし。
だから……かどうかは知りませんが、日本の演技者の技術的なレベルって……誤解を恐れずに言えば、世界的にみてかなり低い気がしています。(うまいかどうか、ではなくて、技術が高いかどうか、という観点で見れば、のハナシです。うまい……というのはいろんなファクターが総合してきますから、いわゆるうまい役者さんならモチロン日本にも沢山いるわけですが)それがどんなところに影響してくるかと言うと……例えばコメディのような、技術面がタイヘン重要な分野においては、すごく深刻なことになっちゃうワケですね。

ハナシが長くなりましたが……
つまりは、そういう場を、創ってみたかった……というのが、私たちのワークショップの根源的な動機です。既に一線で活躍されている方が、自分の演技の技術的な部分を再確認するために有効な場。なんらかの壁にあたっている人が、技術的な面で、それをクリアできる場。時々そこに行けば、役者としてなんらかのプラスアルファを与えてくえる場。そういう場を……創れたらな、と。そういう場がなきゃならんのですよ。広く、演劇界のためにも。



戻る